瀬名秀明の世界のミュージアムに行こう!
第5回 イギリス編1
(月刊フィーチャー1999.10/pp.113-116)
きっかけは、庭園史博物館に行くために乗ったタクシーで、運転手から聞いた何気ない一言だった。第5回 イギリス編1
(月刊フィーチャー1999.10/pp.113-116)
「庭園史博物館ね。そうだ、あそこにブライ提督の墓があるのを知ってますか? ほら、映画にもなったでしょう。 バウンティ号の艦長の」
バウンティ号? そのときは首を傾げるだけだった。なぜ庭園史博物館に船乗りの墓があるのだろう?
だが、後でわかった。まったくの偶然ではあるにせよ、それはこの世に「博物館」というものが誕生した経緯と深い関係があったのだ。
庭師が作ったミュージアムの聖地
「庭園史博物館はどうでしょうね。ほら、いまガーデニングブームだし」
編集者のTさんにそういわれて取材先のひとつに選んだ庭園史博物館だったが、始めのうちはどのあたりが面白いのかよくわからなかった。テムズ河の側に建つセント・メアリー・アット・ランベス教会を改造して造られたその博物館は、ステンドグラスの下のカフェテリアがおしゃれな感じではあるものの、展示コーナーに飾られているジョウロやハサミなどの古ぼけた庭道具はどれも同じように見え、また教会の裏の庭もちょうど冬の季節だったこともあって閑散としており、正直にいって全体的にあまり「庭園」らしさを感じ取ることができなかったのだ。
ところがオーナーの老婦人ローズマリーさんと話をしているとき、突然この博物館の重要さがわかった。イギリス最古の公共博物館「アシュモレアン博物館」にも行くのだと伝えると、ローズマリーさんは顔をほころばせた。
「素晴らしいわ。あそこにはジョン・トラデスカントのコレクションがたくさん展示してあるのよ。トラデスカントは庭師でね、世界中を回っていろいろな植物や貴重品を集めてきたの。彼のお墓をご覧になった? 奥の庭にブライ艦長のお墓と並んでいるわ」
あっ、と思わず叫んでしまった。それから慌てて展示コーナーと庭を見直してみた。先ほどまで生彩なく見えた展示品ひとつひとつが、今度は鮮やかに個性を主張してくる。見方が定まるだけでこんなにも博物館の面白さが変わるのかと驚いてしまった。この庭園史博物館は庭園の歴史を展示するだけではない。四〇〇年に及ぶイギリスのミュージアムの歴史を凝縮する、いわば特別な「聖地」だったのである。
話は一七世紀に遡る。当時のイギリスでは海外探検が盛んだった。例えば、貴重な資源を求めてアメリカ大陸のヴァージニア植民地に「ヴァージニア・カンパニー」が船を出していたことは、ディズニー映画『ポカホンタス』でも描かれているとおり。この頃の冒険家たちが持ち帰った異国の品々は、イギリス国内で大いに話題になっていた。
なかでも重要視されたのが植物である。ジャガイモやトマトなどが知られるようになり、食糧としての経済的有用性が認められるようになった。そこでイギリスは、奴隷の食糧を大量生産するために、それらの苗木を植民地で栽培し始める。さらに一八世紀になると「プラントハンター」と呼ばれる職業が登場する。裕福な園芸家のために海外から珍しい植物を採集してくる人たちのことである。
その嚆矢といえるのがジョン・トラデスカント親子(父子とも同姓同名)。ふたりは一六世紀終盤から一七世紀にかけて活躍した庭師で、しかも船で各国をまわり、珍しい植物を採集してきては自宅の庭で育てていた。また航海の度に異国のさまざまな珍品を収集し、さらには大使や商人が持ち帰ったものも譲り受けて、それらを自宅に飾っていたのである。「ノアの方舟」と呼ばれたこれらの収集品は、当時大変な評判となった。多くの名士がランベスにあるトラデスカント家を訪れ、まる一日を過ごしたという。
父トラデスカントの死後は息子ジョンが遺産を継承し、さらにコレクションを増やしていった。そして一六五〇年、ジョンは好奇心旺盛な弁護士エリアス・アシュモルと出会う。ジョンが亡くなるとそのコレクションはアシュモルに寄贈される。アシュモルはその後、彼自身の収集品と共にトラデスカントのコレクションをオックスフォード大学に寄付。これらを中心として出来たのが、一六八三年に設立されたアシュモレアン博物館なのである。大英博物館に先立つこと七六年、ここにイギリス初の公共博物館が誕生する。庭師が「ミュージアム」を作ったなんて、いかにもイギリスらしいではないか!
だが一方、このイギリスの冒険精神と食糧政策は、「バウンティ号の叛乱」と呼ばれる悲劇も生み出した。一七八七年、戦艦バウンティ号はタヒチに向けて出帆した。食糧になる「パンの木」を採集し、その苗木を西インド諸島まで運搬するためである。艦長はキャプテン・クックの最後の航海で航海長を務めたウィリアム・ブライ。タヒチで首尾良くパンの木の苗を積み込んだが、そこから西インド諸島に向かう途中で、もともと激情的な性格のブライ艦長に船員たちの不満が爆発、クーデターが勃発する。ブライ艦長は小舟で追放される。残った船員たちは海軍の追跡に怯えながらバウンティ号で放浪を続け、やがて無人のピトケアン島に上陸する。しかし彼らは仲違いから殺し合いを始めてゆく。
一説では、船上でパンの木に与える水が不足したために、ブライ艦長が船員たちの飲み水を制限したのが叛乱のきっかけのひとつだったともいわれている。当時の植物採集政策の重みが伝わってくる。ブライはイギリスに帰還し、再びタヒチに赴き、今度はパンの木運送の使命を見事に遂行した。映画ではブライ艦長の悪行ぶりが強調されているが、実際はそれほど単純には割り切れない事件だったようだ。庭園史博物館の庭に立つブライ艦長の墓には、「初めてパンの木をタヒチから西インド諸島に運んだ男。勇敢に母国のために戦った。愛され、尊敬され、悲しまれて死んだ」と刻まれている。冬の寒空の下で、その墓碑銘が痛々しい。
庭園史博物館には「タタールの植物子羊」という摩訶不思議な展示品がある。恭しくガラスケースに収められているそれは、木の根っこのようなもので出来た羊の形の物体だ。半植物・半動物の生物が存在する証拠といわれたこの奇妙な標本を見つめていると、博物館誕生時の息吹きが伝わってくる。珍品・奇品の蒐集に生涯をかけたトラデスカント父子の手の温もりが、まだガラスケースに残っているようだ。
人間の蒐集癖をくすぐるアシュモレアン博物館
「ここはイギリスで一番素晴らしい博物館だよ」
取材の途中、警備員がそういって本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。案内役のイアン・チャールトン氏が横で我が意を得たりという風に頷く。それを見て嬉しくなり、こちらも深く頷いてしまった。このときもし「あなたの一番好きな博物館はどこですか?」と聞かれたら、私も迷うことなくアシュモレアン博物館の名を挙げただろう。
庭園史博物館を訪ねた翌日、列車に乗ってオックスフォードに向かった。初めてのオックスフォードは「黄土色」の印象だった。やはり大学町であるケンブリッジではほとんどの建物が「焦げ茶色」なのだが、それに比べるとこちらはかなり明るい雰囲気。後で聞いてみると、最近になって町全体の建物の清掃をおこなったのだそうだ。
博物館の見学を始めてすぐに、どこか懐かしい想いが胸に広がってきた。ほどよい展示室の広さと落ち着いた雰囲気、そして意外性たっぷりの不思議な展示品の数々。細かく見ているうちに懐かしさの原因がわかってきた。木製のケースの中にぎっしりと詰め込まれた古代の遺物。柔らかな模様の壁紙。ピサロの絵画もオックスフォードの古いコインもストラトヴァリウスも銀のスプーンもエジプトのミイラも刀の鍔も、さらにはノーベル賞のメダルまでもが並ぶ混沌とした展示。大らかさと徹底ぶりが絶妙のバランスで同居していて、それが実に心地よいのである。人間が本来持っている蒐集癖を生の姿で見ているようで、怪獣カードを集めていた子供の頃の自分をつい思い出してしまう。取材をしていてこれほどくつろいだ気分になれたことはない。
博物館の二階に「トラデスカントの珍品」というごく狭い部屋がある。トラデスカント父子が集めたものがいまでも展示されているのだ。部屋に入った瞬間、取材であることを忘れて興奮してしまった。巨大な瓶、どこのものとも知れない彫刻品や民族衣装、奇妙なアフリカのドラムやトランペット……これまで見たこともない奇々怪々な品品が所狭しと陳列されている。
その部屋の中央に広げられていたのが、アメリカはヴァージニアで収集されたという「パウアタンのマント」だ。説明文を読んで驚いた。パウアタンとはあのポカホンタスの父親なのだ。父トラデスカントが「ヴァージニア・カンパニー」と接触していたことは確かなようで、その筋から流れてきたのかもしれない。実は帰国後、映画『ポカホンタス』を見直してまた驚いた。ラストシーン近くで、負傷した主人公スミスにパウアタンが自分のマントをかけてやるシーンがある。するとこれがそのマントなのか? まさか!
「ミュージアム」の底力を思い知らされた。昔の博物館はこんなにも驚異と冒険に満ちていたのか!
日常に溶け込むミュージアムの歴史
オックスフォードから帰ってきて大英博物館に足を運んだとき、おやっと思った。ひどく大味な印象を受けたのだ。確かに建物は広く、展示品も多い。見学客も大勢いる。だが、あの細やかなアシュモレアン博物館の展示を見てしまった後では、巨大なニムルドの人面有翼獅子も、アッシリアのレリーフも、どこかピンと来ない。特にパルテノン神殿のフリーズ(彫刻が施された外壁の石)を一堂に並べた大広間では、かつての大英帝国の幽霊が威張り散らしているように感じられて、素直な気分になれなかった。
だが、これほど肥大化してしまった大英博物館も、その礎を築いたのはやはりひとりの好事家だった。彼の名はハンス・スローン卿。天然痘の予防接種の普及に尽力した医師で、広い交友関係を持ち、多くの珍品を所有していた。晩年にはそのコレクションを見るために彼の家を訪ねてくる人も多かったという。彼は自分のコレクションを収蔵するための施設の建設を提案して死去。これを受けて議会は他の者の蔵書などと併せて引き受けることを決定。なんとこのとき、博物館の建設費用を調達するために宝くじによる基金が募られている。博物館の場所は、スローンが一時住んだこともあるモンタギューハウスに決定。一七五九年一月一五日、大英博物館は一般公開された。
おそらくこの博物館の真の凄さは、子供の頃から百回くらい通わないとわからないのだろう。そうすれば、ひとつひとつの展示品が沁み入るように身体に入ってくるのかもしれない。今回私が興味を覚えたのはギリシア・ローマ時代の日常生活品の展示室だった。小さなサイコロ、ぼろぼろになった人形。わずかな取材期間で、それだけでも心に残せたのを良しとしたい
庭師のトラデスカント父子から始まったミュージアムの歴史に、もうひとり付け加えるべき人物がいる。ジョーゼフ・パクストンという、やはり庭師だ。だが彼は単なる庭師に留まらず、温室の設計なども手がけ、造園家、建築家として一九世紀に名声を得た。
そして一八五一年、彼は温室設計の腕を買われ、第一回ロンドン万国博覧会の主会場を設計する。総ガラス張りの巨大なその建物は「水晶宮」と呼ばれ、壮麗な美しさを誇った。大博覧会時代の幕開けである。
珍品・奇品を見たいという私たち人間の欲求。博物館の誕生によって明確化されたそれは、やがて物欲・消費欲と混ざり合って博覧会を生み出し、さらには今日の百貨店を築いた。
私たちの日常にもミュージアムの歴史が溶け込んでいる。デパートでショッピングを楽しめるのも庭師のおかげだなんて、なんだか笑ってしまうのだ。
The British Library
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