瀬名秀明の世界のミュージアムに行こう!
第3回 オーストラリア編
(月刊フィーチャー1999.8/pp.113-116)
ホロコーストを生き延びた人たちを二番目に多く受け入れた国はオーストラリアだ、という事実を知ったのは、シドニーのユダヤ博物館を取材している最中だった。船の甲板から手を振る多くの人々を捕らえた写真でそのことを説明するパネルを見た瞬間、アメリカに次ぐ「移民の国」としてのオーストラリアが突然実感を伴って胸の中に入り込んできた。ホロコーストとオーストラリア。その一見何のつながりもないように思えたふたつの事柄が、「移民」という言葉でつながったのである。それもがっしりと。第3回 オーストラリア編
(月刊フィーチャー1999.8/pp.113-116)
「スティーヴン・スピルバーグはホロコースト時代の生存者たちからインタビューを集めるプロジェクトを進行中で、オーストラリアでも多くのユダヤ人が取材に応じたんですよ」
取材に同行して下さったオーストラリア観光局のシェリーさんが教えてくれた。
「そうそう、『シンドラーのリスト』の原作者がオーストラリア人なのを知ってますか? 彼はオーストラリアの移民の本も書いているんです」
知らなかった。作者トマス・キニーリーは単なる一発屋だと思っていた。
「ああ、いやですね、こういう展示は!」取材を終えた直後、シェリーさんが大声を上げた。
「以前、収容所の跡地を訪れたことがあるんです。見学しているうちに気が滅入ってきて、マクドナルドに直行しました。なぜって、マクドナルドはいまの私たちの時代を思い出させてくれるから。自分がホロコースト時代にいないんだってことを実感できるところだったから」
19世紀、その歴史は、過酷な労働から始まった
オーストラリアのシドニー郊外にキャプテン・クックが上陸したのは一七七〇年四月二九日。イギリスは当時庶民の貧困が大きな問題となっており、治安は悪化し、逮捕者が牢から溢れる状態だった。そのためイギリスは彼らを海外の植民地へ追放していたのだが、一七七四年に植民地のアメリカが独立、新たな流刑先が必要となった。そこでクックの「発見」したオーストラリアに白羽の矢が立ったのである。一七八八年、最初の流刑囚約七六〇名がシドニーに上陸。オーストラリアの歴史はそこから本格的に始まることになる。
二月、日差しの強い夏のシドニーで、ハイドパーク・バラックス博物館を訪ねた。ナショナル・トラストで働く日本人の敏恵スイフトさんが笑顔で出迎えてくれた。ナショナル・トラストは歴史的建造物の保全と管理をおこなう団体だが、敏恵さんはそれだけでなく見学にやってくる子供たちにいろいろ工夫しながらガイドを務めたりもしている。「日本から修学旅行でやってくる団体も多いんですよ」なるほど誠実かつ豊かな語り口で、すっかり惹き込まれてしまった。
ハイドパーク・バラックスは、一八一九年に男性用の囚人宿泊所として建設された。現在はオーストラリアの移民の歴史を辿るミュージアムに改造されている。まずは外観の説明からと一旦外に出たとき、敏恵さんが外壁の煉瓦のひとつを指さした。指先で押したような窪みがついている。
「煉瓦を作っているときに囚人がつけた印でしょうね」
思わず周囲を見回してしまった。車の往来が激しい正面の道路。教会や近代的なビル。緑がまぶしい公園もすぐそばにある。そう、このバラックスは設計者も流刑囚なら煉瓦を焼いてそれを積み上げたのも流刑囚なのだ。
バラックスは設立から約三〇年間は囚人の宿泊所として使われたが、やがて流刑制度が廃れてゆくのに伴ってその役目も変化していった。一八四八年からの約三〇年間は独身移民女性の宿泊所、その後の約九〇年間は裁判所や政府の事務所として用いられた。一九八〇年にミュージアムにするための工事をおこなったところ、天井や床下から大量に遺物が発見され、大騒ぎとなった。なんと当時の建物に棲み着いていたネズミが巣の中に囚人の衣類の切れ端や日用品を持ち込んでいたのだ。いま展示されているものの多くはネズミの巣から取り出されたものである。ネズミの業績(といっていいのかどうか)を讃えて、オフィスの前には本物のネズミが飼育されている。
博物館では、囚人収容時代と政府事務所時代の内装も再現されている。囚人の寝室には二列にずらりとハンモックが釣り下げられていた。ハンモックを柱に縛るロープの結び目も、ネズミのコレクションの中から発見されて再現することができたのだという。
このバラックスに収容された囚人の数はおよそ三万人。最年少者は九歳の少年で、軽い窃盗罪で流されてきたのだという。他の流刑囚たちからこき使われ、わずか一四歳で亡くなっている。
「囚人といっても、みんな食べ物を盗んだ程度の軽い犯罪者ばかりですよ。殺人のような重罪を犯した人はイギリス本土で処刑されていますから、オーストラリアには入ってきていないんです。囚人たちは刑期を終えても本国へ帰るだけのお金がなかったので、家族を逆に呼び寄せたりしてこちらで生活を続けました。彼らが鍛冶屋や靴屋を営むようになって、オーストラリアの経済が発展したわけです」
敏恵さんは最後にがらんとした小部屋に私を案内してくれた。そこには三台のコンピュータが置かれていた。ハイドパーク・バラックスに収容された囚人の名前とプロフィールが検索できるシステムが入っていた。
「ちょっと前までオーストラリア人は自分たちの先祖が犯罪者だということで負い目を感じていたようです。でもいまはむしろ、先祖がこのオーストラリアの礎を築いたのだということで誇りに思うようになってきているんですよ。ここに来て自分の先祖の名前を探す人が後を絶たないんです」
「安息の地」に訪れた黄金時代
一八五一年、シドニーの北西バサーストで砂金が発見され、それ以来一攫千金を夢見た移民がオーストラリアに殺到する。ゴールドラッシュの始まりである。この時期もっとも金塊が発掘されたのはヴィクトリア州で、全オーストラリアの九割の金がここから取られ、特にバララットという採掘町では一〇年間で人口が一〇万人から五〇万人へと急増した。バララットという地名がアボリジニの言葉で「安息の地」を意味するのは皮肉である。最終的にバララットで発見された金は実に六三〇トンに及んだという。
現在のバララットはリタイアした老人たちのための閑静な住宅街だが、ここに金塊が見つかった一八五一年からの一〇年間、すなわちバララットの文字通り黄金時代の町並みを再現した「ソブリン・ヒル」がある。ソブリン・ヒル博物館協会が運営する非営利団体で、ボランティアの人たちが当時の服装でアトラクションをしてくれる。ただし京都の東映太秦村などと違うのは、アトラクションが単なる娯楽ではなく、当時の文化や生活をしっかりと考証して再現された教育活動にもなっているということだ。事実、多くの小学生がこのソブリン・ヒルの小学校に体験入学し、当時と同じ授業を受けているのだ。
もちろん金の採掘についての展示も充実しており、「町」の中心部に建っている大きな櫓では、ゴールドラッシュ後期の大がかりな採掘手順が気軽に学べる仕組みになっている。このほか、教会やボーリング場もあれば郵便局や写真館もある。ベーカリーでは当時のやり方でパンを焼いているし、実際に鉄板からなべを作ったり、木材から馬車の車輪を作ったりするところも実演してくれるのがとても面白い。ボランティアの人たちがとても気さくで、ユーモアに溢れているのもいい。彼らが衣装を着たまま何気なく道を歩いているのを見ると嬉しくなってくる。
当時、バララットでは金をめぐるトラブルが頻繁に起こっていた。当時の政府はライセンス税という名目で金採掘業者から税金を取っていたにもかかわらず、彼らの議会への参加権を認めようとしなかった。ある採掘者の殺害事件をきっかけに、採掘者たちと政府との間で緊張が高まり、採掘者たちはライセンス証を焼いて反抗、砦柵を造って立て籠もった。兵士や警察がこれに攻め入り、多くの死傷者が出た。だが結果的に採掘者の意見は認められ、ライセンス税の徴収は廃止、議会での投票権と陳述権も認められた。これが後に「エウレカの反乱」と呼ばれる事件で、オーストラリアの民主主義の始まりとされている。
当時そのままの品々が、時代を超えて語りかける
今回私は、一ヶ月間ヴィクトリア州のメルボルンという町に滞在しながら博物館を回った。ゆったりとしたヤラ川周辺の眺めが美しい町で、昔ながらの路線電車(トラム)も走っている。
ここに昨年オープンしたばかりの移民博物館があった。かつて関税局として使われた建物を改造したもので、展示スペースはわずか一フロアだけだがかなり見応えがある。
入口を抜けるとまず目に飛び込んでくるのは青い照明の細長い部屋。移民たちが持ってきた品々がガラスケースに陳列されている。いま移民してくる子供たちが持ってくるものの代表としてゲームボーイがあった。あまりに唐突で、しかも現実的で、胸を打たれた。
貿易商人たちがかつて税の支払いに訪れたという大広間には、客船のフォルムをかたどった巨大な展示室が据え置かれていた。その内部にはさまざまな時代の船室が再現され、移民たちが船の中で使った品物が収められている。暇つぶしのためか、あるいは新天地への期待を高めるために用いたであろう楽器類。病人を介護するための医者の鞄や薬箱。何の変哲もない日用品だが、それだけにどれも奇妙に生々しく、船内での生活の匂いが漂ってくる。
移民の歴史を年代別にまとめたコーナーでは、底抜けに明るい移民歓迎ポスターなどと並んで、苦い事実もしっかりと展示されていた。ひとつは移民同士の差別意識である。ソヴリン・ヒルの話に少し戻るが、ゴールドラッシュの一八五〇年代、バララットの人口の四分の一は中国人だった。金を採掘するために大量の中国人労働者がやってきたのだ。あからさまな中国人排斥運動が起こり始める。ソヴリン・ヒルの一角にも中国人村が再現されていたが、見学客は密集している汚いテントなど熱心に見ようとしない。哀しげに建っていた仮設寺院が印象的だった。この移民博物館でも中国系移民の家族の辿ったドラマが写真や衣服などを組み合わせながら展示されていて、胸に迫るものがあった。
この博物館のクライマックスは「伝説」と名づけられたコーナーである。オーストラリア初のバレエダンサーが身につけた衣装、職人が作り上げた家具……いずれもただの薄汚れた品々に過ぎない。だがこの展示室で私は、世界の著名な美術品を集めたメトロポリタン美術館よりも激しく動揺し、また感動した。これらにはすべて物語がある。伝説がある。ミュージアムは「物」を収めているのではない。その「物」についての話、すなわち「物語」を展示しているのだ。ありふれていようと古ぼけていようと、そこに豊かな物語が存在していればミュージアムに展示される価値がある。その物語を吸収することによって、ミュージアムという空間は見学者にとって無限に広がってゆく。オーストラリアに来てもっとも強く感じたのはそのことだった。
――メルボルンに滞在中、オーストラリアの子供は必ず読むという『マイ・ブラザー・ジャック』をずっと読んでいた。メルボルンに住む作家志望の少年と暴力的な兄との葛藤を描いた、肌がひりひりするような青春小説だった。
帰国後、『シンドラーのリスト』の作者トマス・キニーリーの小説を何冊か原書で読んでみた。オーストラリアに移住してきた劇作家、アボリジニと白人の混血として生まれた少年……。思わずため息が出た。なぜこんなにもずしんとくるのだろう。アメリカ小説のように、なぜ手際よく娯楽にしないのだろう。
むき出しの「物語」は鮮烈すぎる。
Powerhouse Museum
パワーハウス・ミュージアム
写真はこのミュージアムで最も地味かつ最高の発明品「ベジマイト」。パンやビスケットに塗る焦げ茶色のペーストで、いまでもオーストラリア人の大好物(実際毎日のように食べている)だが、これがひどいまずさ。ヌカ漬けのヌカだけのような感じ。正体は酵母エキスで、1924年に発売された当初はまるで売れなかったとか。第二次大戦後に健康食品として爆発的に普及したらしい。まあ確かに栄養満点だが、他にいくらでもうまいものはあるだろうに。空港のみやげ物屋で小瓶を売っているので、話の種にどうぞ。なお、このミュージアムのレストランは美味しいのでおすすめ。ケン・ドーン直筆の壁画が全面を覆っており、オーストラリアらしい明るい雰囲気。